暖かな風と柔らかい草花に包まれて、深守は一人ぽつんと立っていた。
ここが天国なのか何なのかは不明だが、現実世界で無いことは誰だって理解出来る。
だけど―――。
(…遂に死んじまったのかしら、アタシ)
景色を眺めると、そう考えるのが妥当だった。
中途半端なまま、彼女を置いて行ってしまった。深守は花を踏まないように…と、細心の注意を払いつつも無意味に歩き回る。どうしたものか、不安感を振り払おうとするもどんどん募るばかり。終いには「あぁ…」としゃがみ込んで頭を抱えてしまった。
「アタシ……、結局結望に何もしてやれなかった……」
紀江の事を守れず、結望も危険に晒してしまった。
まさか最後の最後であんな事になるとは思わなかった。結果結望を救えたのは良かったけれど、盃を交わしてしまった直後の精神に干渉するとは思いもしなかった。
空砂の能力は記憶を奪うだけでは無かったのか。己の確認不足に、結望が酷い目に遇ってしまった。
これも自分の甘さが招いた事。
もっとああ出来たのではないか、こう出来たのではないか、考え出したらキリがない。
そう考えると、あのまま結望の元から立ち去れたのは最善だったかもしれない。自分がいる限り、彼女を苦しめるだけだから。早い段階で居なくなれたのは、彼女の未練も少なく済む。
そして、自分も―――。
深守は溜息を吐いて、着物の袖を摘むと、心底落ち込んだ。
「――…じゅ」
目を閉じてその場で蹲っていると、ある声が聞こえた。
「……深守、さん」
「…………貴女、は……」
顔を上げると、長い髪の毛を風になびかせながら、こちらを見ている女性が立っていた。
太陽の光――か近しいもののせいか、影になっていたけれど、それが誰なのかひと目でわかる。
「紀江…、ちゃん……?」
深守は立ち上がると、間違いなく彼女が目の前にいた。そして彼女がいるという事は、自分は間違いなく死んだのだ。ここは、死後の世界というやつだ。
…あぁ、本当に情けない。深守は視線を下の方へ逸らした。
「深守さん」紀江は呼びかける。「…深守さん、顔を上げて」
「アタシ…は、アンタと話せる事はないよ」
さっさと立ち去ろうと後ろを振り返る。
だけど、紀江は深守の手を掴んで離さない。
「待って…っ! …もう、深守さんったら…久しぶりにお話できるのよ?」
「ひ、人違いよ……」
「まっ! 深守さんってそんな事言う人だったかしら? ねっねっ、結望の事も沢山聞きたいのよ。お願い!」
紀江は昔と変わらず、子供のような無邪気さで、掴んだ手をぶんぶんと振った。
そんな彼女に嫌とも言えず、改めて紀江の方を向き直す。
「ふふふっ深守さん」真正面で嬉しそうに笑いながら、紀江は深守との再会を喜んでいた。
「―――ねぇ、最近のあの子はどう?」
「……凄く良い子よ。アンタと同じでね」
「あら、褒め上手なんだから」
二人は花畑をゆっくりと歩きながら、のんびりと世間話をする。紀江は深守の言葉に頬を赤らめると、ぱたぱたと手で顔を仰いだ。
「……そういえば、結望って蛙が苦手よね」
「そうさねぇ…季節的に全然いないから気にしてなかったけど、あの子……大の苦手だったわね」
思い出して、つい微笑んでしまう。
泣き声が聞こえて駆けつけてみれば、着物の衽付近に蛙が引っ付いていて泣いていた。幼い結望からしたらかなりの大きさで、余計に怖かったのだろう。深守は蛙を逃がすと、そのまま結望を抱きかかえてあやしたのだった。
「私は蛙可愛くて好きよ?」
「ふふっ、確かに平気そうだったわね」
「私、結構何でも大丈夫なのよ」
紀江は袖で口を隠しながら笑う。
そして、そっと自分の腹部を手で包みながら、悲しそうに言った。
「結望は私が唯一お腹を痛めて産んだ子だから……ずっと一緒が良かったな」
「紀江ちゃん…」
「こんな風に他愛のない話をして、毎日楽しく過ごして、……それで結望の結婚式で化粧を施すの。…お相手は深守さんかも?」
「アタシ…っ!?」
「ふふふっ、有り得る話よ? ……愛して、愛して、ずっと、守ってあげたかった…。きっと、私達に生贄の使命がなかったとしても、この時代難しい事かもしれない。だけど、思い続ける事は出来た。大人になる結望を、傍で支える事は出来た。だから死にたくなんてなかったな」
両手を弄りながら、紀江は深守の先を歩く。
あくまで軽く、気楽に語る紀江の言葉に耳を傾けながら、深守は静かに頷いた。
「……あっ! あのね深守さん…、そういえば私…結望にも会ったのよ」
「結望に…?」
深守はきょとん、と首を傾げる。
「そう…、夫婦盃を交わした結望が、羅刹様の意識に入った時」紀江は立ち止まって言った。「あの子は、貴方に会いたがっていたわ」
深守は目を見開いた。
「……ねぇ、深守さん。こんな所にいてはだめ」
深守の両手を握ると、紀江は真剣な眼差しで言った。
「………でも、あの子に合わせる顔なんてないんだよ」
深守は目を伏せて、結望の顔を思い浮かべた。
頭に浮かぶのはいろんな結望の表情。
だけど彼女が泣いてる顔の方が、沢山見た気がする。
泣いているのは、間違いなく自分のせいだ。
深守は困った様に言った。
「アタシは…、いえ…ダメよ。結望の元へは帰れない。そもそも、アタシは死んだのよ? 紀江ちゃんだって此処にいるワケだし」
死んだ者が現世へ帰れるはずがない。あの時全ての力を使ったはずなんだから。
「――此処はね、深守さんの世界なのよ。私はたまたま、……そう、たまたま中に入れただけの部外者で、多分、旦那様のおかげで存在してる」
「羅刹様…?」
「ふふっ、そう、羅刹様。あのお方、心はお優しいのよ? 政略結婚と言われてやって来た私に優しく接してくださったわ。だからね、悪く言われるのはちょっぴり、心外なの。……騙された上に、食べられちゃったのに…。こんな事言うのおかしな話よね」
そう言って紀江は苦笑する。
「……脱線してしまったわ。えっと…ね? つまり此処から出るには、きっと本人の思い次第だと思うのよ」人差し指を頬に当てて言った。
根拠は無いけれど、と付け足しながらも、紀江は自信たっぷりに宣言する。
「深守さんなら絶対に帰れるわ。私が保証する! だってほら、神様なんですもの…!」
紀江は深守の事を神様と表現した。
彼女は何かある度に、深守は私達の神様ね、と嬉しそうに言っていた過去がある。
だけど、その言葉に深守は大きく首を振った。「違う…アタシは神様なんかじゃないわ…っ」
膝を着くや否や、草花の上に雫を零す。
「…アタシは、あの子が苦しんでいる時に傍に居てやることも出来ない。アンタも…、結望も、危険に晒して満足に守ってやる事が出来なかった。っ大切な…、名前も貰ったってのに…、名に恥じぬ妖でありたかったのに、アタシは何も出来なかったんだよ…。オマケに勝手に結望の元から去ってしまった。そんなの、神様と言えないじゃない…っ!」
この紀江が亡くなってからの事を思い返しながら、深守は忸怩たる思いを叫んだ。年甲斐もなく大粒の涙を沢山流しながら、紀江に向かって深々と頭を下げる。
謝罪の言葉をどれだけ述べても全然足りない。
カッコイイ神様を演じてみても、二人の為にしてやれた事など殆どない。
深守は過去を振り返る度に猛反省した。
「アタシは出来損ないの化け狐なのよ」
そう、出来損ないで、生きている意味のない狐。身体を大きく変化させたところで力なんて皆無に等しくて、鍛えたところでこの有様だ。
こんなの、嘘吐きで裏切り者の狐と同じ、もしくはそれ以下の存在としか思えない。
そう言って、泣きながら自分を卑下する深守の姿に、紀江は慌てながら、
「待って…! どうしてそんな事言うの…? 深守さんはちゃんと私達を守ってたわ。一人で寂しい時傍に居てくれたのは間違いなく貴方よ、結望だって、それは同じはずよ…!」
と深守の腕を掴んで言い返した。
「そんなの…、些細なこと過ぎるわ」それでも深守は首を振り続ける。
「だからよ。…だから、嬉しいの。気づいてよ、私達の思いにも……」
「…っ」
「だって何より、あの子を愛してくれていたじゃない。貴方は、誰よりもあの子の事を一番に思っていたわ…。自分の命を顧みずに結望を救った貴方は、カッコイイだけじゃ言い表せない。自信を持って欲しいの――貴方は間違いなく“深守”だったと」
両手で深守の頬を覆う。伝ってくる涙を指で拭いながら、紀江は「貴方は素敵よ」と呟く。
ああ言えばこう言う普段の精神状態ではない彼を見て、紀江は思った。
この人は抱え込み過ぎていたんだと。
紀江自身、記憶を消されていたから鬼族の事も何も知らなかった。死ぬその時まで知らなかった。けれど彼は、全ての事を知った上で、我が子を助け出そうとしてくれた。
彼の行動のおかげで、鬼族や、宮守の人と協力関係になれた上、結果的にはどちらも救う事が出来た。
それは絶対に誇って良い結果だ。
それに気づいて欲しくて、紀江は真剣な表情を浮かべる。先程までの無邪気さとは一転、一人の母としての顔になった。ただじっと見つめ合って、紀江は深守の頭を撫でた。深守は女性の前で泣いて、更には慰められているなんて、と羞恥心を抱いたが、紀江はそんな事気にもとめず優しく微笑むだけだ。よしよし、とあやすように深守の涙を受け止める。
今の乱れた心の深守には、彼女の行動が全て身に染みた。
深守は紀江のあたたかさに包まれて、ゆっくりと冷静さを取り戻す。深守は深呼吸をするともう一度だけ謝った。紀江も頷いて肯定する。
「結望は…、許してくれるかしら」
「許すも何も、貴方の帰りを待ち続けているわ」
「……結望」
結望に会いたい。
幼き頃沢山見せてくれた愛らしい笑顔を、またこの目で見たい。自分もその輪に入りたい。
深守は願ってしまった。
「アタシ…、結望に会いたい。早くあの子の所へ戻って、沢山抱き締めるの。それで…」
泣きながらも笑顔を作って見せる。
「もう一度愛してるって、伝えたい」
「……えぇ」
紀江はその笑顔に応えるように、今度は大きく頷いた。
「そうと決まれば早く動きましょう」ぽんと手のひらを叩く。
「でも、こんな所からどうやって目覚めるんだい?」
「気合いよっき・あ・い!」
両手でこぶしを握ると、紀江はぴょんっと兎の様に跳ねる。
「無茶苦茶ね…」
「だから、もう…何度も言ってるけど、深守さんなら大丈夫よ! 私を信じてよ」
「えぇ、信じるわ」
紀江に手を引かれながら、深守は草花の中を進んで行く。
「――ねぇ、深守さん…。最後だから言うんだけど」
紀江は立ち止まり、振り返る。
そしてそのまま、深守の胸へ飛び込んだ。
「貴方に出会えて良かった…。私、ずっと、ずっと一人で怖かったの。…本当は凄く寂しかったの。羅刹様にも会わせて貰えなくて、不安で……でも貴方のおかげで…結望にも、父代わり、じゃないけど…楽しいひとときを与えられたんじゃないかって。あの時は毎日がね、明るくて、きらきらしてたのよ」
頬を伝う涙を隠すように、紀江は深守に蹲る。深守は抱き締め返し、彼女の背中を摩る。身に纏う黄色い着物が、紀江の涙で芥子色に染まっていくのを見るのはいつぶりだろうか。今度は自分が慰める番だ、と深守は彼女の言葉に耳を傾けながら、あの日の事を思い出した。
―――再会した時の事だ。
紀江に口約束を結ばれ寂しげな彼女の背中を見送った時、深守は何か胸に引っかかるものを感じた。多分、紀江にとってはただの独り言で、本当に約束をした訳ではなかっただろう。
しかし、深守は会いに行こうと思った。
気持ち的にはただの暇潰しで、興味本位だった。だけど、何となく、無視してはいけない雰囲気があった。
とはいえ、ただ会いに行くだけでは面白くないと考えた深守は、狐姿ではなく、人間に化けて行ったら彼女は驚くだろう――そう考えて、とびきり派手な格好をした。普段は身軽さを考えて狐だが、性格的にもこの身なりはしっくりきたのだ。
人気の少ない夜に、深守はふらっと古民家へ現れた。どんな反応をするかしら、など呑気な事を考えていたけれど、その時見た紀江は思い詰めた様子で泣いていたのだ。深守に気づいた紀江は、手を伸ばして縋る。
どうしたら良いのかわからず、勢いで抱き締めて、「大丈夫」と伝えた。
あの時ぶりに彼女を抱き締めた。
まだまだ幼かったあの時よりも少しだけ大人になった紀江に、深守は時の流れを実感する。だけど、温もりは全然変わっていなかった。此処では死んだ者も鼓動を感じられ、体温もしっかりと存在している。
生きていたままの彼女がここにあった。
「それはこっちの台詞よ。…アタシは、アンタと、アンタの子のおかげで生きる意味を持てたの。愛を知れたの……ありがとう」
自身の胸元で微笑んだ紀江の頭をそっと撫でる。
「ふ、ふふっ、何だか…昔に戻ったみたい」彼女もあの時のことを思い出したのか、つい笑ってしまうと口を抑えた。
「アタシも同じ事思ったさ。アンタは変わらないってね」
「それって子供っぽいってこと…?」
紀江は頬を膨らませて拗ねる。
「アハハッ、そういうところがそうかもしれないわね」
二人は昔みたいに笑い合った。
「――深守さん。名残惜しいけれど…、私は此処から立ち去るわ」深守の胸元からゆっくり離れながら紀江は呟く。
「私の可愛い可愛い愛娘をよろしくね。近くで見守ってあげてね」
「えぇ、勿論見守るわ」深守は頷く。
紀江は嬉しそうに微笑むと、
「…あの子を愛してくれてありがとう。私達の大切な守り神さん」
そう言って消えていった―――。
「守り神…だなんて」
また通り名が増えてしまったな…。深守は困った様に頬を掻いた。
紀江がいなくなり、一人になって改めて考える。
どれだけ結望を待たせているのだろうか――と。
思っている以上に長い期間なのではないか、そう考えると、尚の事早く此処から出なくてはならない。目覚めなくてはならない。
「……待ってて頂戴、結望」
今すぐ会いに行くからね。