深守

 ゆらゆら、ゆらゆらと、私は暗闇を漂っていた。

 此処が何処なのか全然見当もつかないけれど、なんとなく夢の様な場所なのだと推察した。何も無いのだから、ただ茫として、時が過ぎるのを待つだけ。眠っていても、目覚めていても、全く同じだ。

 だけどある瞬間、私の頭の中に私の知らない記憶が流れ込んでくる感覚があった。

「……おかあ、さま…?」

 ぽつ、と出てきた言葉に驚く。突然何も無い所に現れたのは自身の母親だった。

「結望…、ごめんなさい」母は謝った。「同じ目に合わせてしまったわ」

「…っお母様!」

 私は今にも泣き出しそうな母に駆け寄ると、そのまま抱きついた。夢でも何でも良い、母の温もりを感じられるのなら嬉しかった。

「結望、…あぁ、愛しい子」

 母もぎゅっと抱き締め返してくれて、久しぶりの感覚に私まで泣き出しそうだ。

「お母様…会いたかったです。ずっと、ずっと待ちわびておりました」

「えぇ、えぇ…私もです。大きくなりましたね、結望」

 母は私の頭をそっと撫でる。

 懐かしい、幼少期の頃を彷彿とさせた。

「結望…私は、貴女に酷いことをしました。…あんなに幼い貴女を置いていってしまったのですから」

「それは、悪く言わないでください。お母様のせいではありません」

「…違うのです。私は、……っ」 

「お母様…っ」

 母は倒れ込むように大粒の涙を零した。亡くなった理由が理由だから、どうしようもない感情に押し潰されてしまうのだろう。

 私はそんな母を抱き締めることしか出来ない。

「あぁ…でも、貴女の元へ――神様が助けに行ってくれたのね」

 そう、母は言った―――。



 今から十七年前。妊娠中である結望の母は宮守の元で過ごしていた。

「紀江ちゃん、お腹は大丈夫かい?」

「えぇ、とても元気な赤ちゃんみたいです」

 紀江と呼ばれた少女――結望の母は微笑んだ。


 紀江は結望と対照的で、外へ出ることへの抵抗が無かった。家事を終わらせると村へ出て散歩をしたり、少しだけ森の中を歩いてみたり。勿論いろんな制限はあったけれど。だけどそんな彼女だからこそ、妖と出会す機会も多々あった。紀江も妖葬班の事が苦手だった。紀江は妖が目の前に現れる度、妖葬班に見つかってしまわぬよう、抜け道を教えていた。

「此処にいてはダメよ、直に見つかってしまう」

 今日も紀江は妖らしき生き物に声を掛ける。

 しかしその妖は怪我をしているのか動けないようだった。紀江は妖葬班の気配を感じ、咄嗟に後ろの隙間へ隠した。

「そこの娘、ここら辺に妖を見なかったか」

「いえ。見かけておりませんが」

「そうか」

 幸いにも、今でいう海萊の様に妖の匂いを嗅ぎ分けれる程優れた妖葬班ではなかったようで、すぐさまその人は立ち去った。

「もう大丈夫よ、狐さん」紀江は手当をしながら言った。「…あら? とても綺麗な瞳なのね」

 それは初めて見る美しさで、結望同様、紀江も目を奪われた。狐はそんな紀江のお腹に気づいたようで、鼻をひくひくさせた。

「もうすぐ産まれるのよ。赤ちゃん、ふふっ気になる?」

 紀江は優しくお腹を撫でる。

「あ、そうだ。狐さん、赤ちゃんが産まれたらまた会いに来て。私は…きっとその時、森の奥の古民家にいるから。妖葬班の事もそこまで心配しなくて良いわ、あそこ、滅多と来ないの。約束、…一人は寂しいの」

 彼女は独りでに約束を交わし、その場から立ち去った。

 その時の狐こそ、深守だった。


 紀江は宮守の元で結望を出産後、彼らが所有する森の奥の古民家へ移り住んだ。子育てをする為だ。今まで通り宮守で子育てをするのはダメなのか、そう問うたことがあるが、何でも決まりだそう。故に極たまに手伝いに来ることはあるが、基本は一人だった。何もかも初めての子育てに、紀江は身も心も疲弊していた。

 今思えば生贄が死にたいと思える環境、いつ死んでも子供以外の未練がない状況…みたいな感じだったと紀江は語る。

 いつかの深夜、結望を寝かしつけた後、紀江は耐えられず泣いてしまったことがあった。目の前に置いてあった湯呑みに、涙がぽつんと零れ落ちる。大好きな緑茶の表面に映る自分の顔が情けなくて、紀江は更に落ち込んだ。

(母失格だわ…)

 愛娘はとてもいい子で、目に入れても痛くない程に可愛い。けれど、それだけじゃ耐えられない事の方が多い。

「…っふ…、ぅ…う…っごめんね、ごめんね…結望…っ…わたし、…どうしたらいいのか、もう…わからないの…」

 すぐ傍で寝息を立てる結望に謝った。

 頑張ってる。私はきっと頑張ってる。

 自分に言い聞かせてきたけれど、今日だけは泣くのを許して欲しい。

「っ…誰か、助けてよ…」

 紀江は両手で顔を覆いながら、流れる涙を受け止めていた。

「………」

 その時人影が紀江を包み込んだ。

「…ぇ…?」

 紀江は顔を上げると、人影の犯人を見据えた。

 今でも絶妙だったと思う。狐が約束通りやって来たのだ。大きな身体に耳と尻尾、見た目に違いはあれど、それがあの時の狐だと紀江はすぐにわかった。

 紀江は縋るように狐に手を伸ばす。

「かみ、さま…っ」

 彼はそれを受け入れるように、そっと抱き締めて「大丈夫よ」と、紀江が落ち着くまでずっと背中をさすってくれた。

 その日以来、狐は隙を突いては紀江の元へ現れて、結望の面倒を見てくれた。幼い結望はいつも好奇心旺盛で、元気いっぱいだった。狐姿の彼を見てはドタバタ。大きな彼を見ても無邪気に笑っていた。だけど、どうしても蛙だけは苦手のようだった。今もそうなのかしら…? と紀江は笑う。狐もそんな結望の事が、我が子のように愛おしく感じてしまっていた。


「――ねぇ、貴方の名前を教えて…?」

 ある日、紀江は囲炉裏でお湯を沸かしながら、ずっと聞いていなかったことを聞いた。

 彼は傍で困ったように額を掻きながら、

「…アタシは、特段決まった名前が無くてねぇ」

 と視線を逸らした。

「えっ、なら私が付けてもいい?」

「…おや? むしろ付けてくれるのかい?」

 狐は突然の命名式に、驚きと心躍る表情を紀江に向ける。

「勿論っ! …えっと、ね。深い愛情で、いつまでも見守ってくれる存在で『深守』なんてどう…? なんて、ふふっ変かしら」

 紀江は自分でも恥ずかしくなったのか、頬を赤く染める。だけど、狐にとってそれがたまらなく嬉しくて、何度も何度も呟いて確かめた。

「深守…アタシは、深守…。アッハハ嬉しいわ」

 何百年と生きてきてその場しのぎの名前を使うことはあったけれど、深守にとってこれが初めてのちゃんとした名前だった。

 深守は慌てて立ち上がり、障子を破ろうとしていた結望を既のところで抱きかかえると、

「今日からアタシは深守よ。呼んで頂戴よ結望~!」

「しんじゅ! すきーっ!」

「キャーッ! 結望が呼んでくれた! カワイー! アタシも大好きよーっ」

 くるくると踊りながら喜びを表す深守に、紀江にまで幸福が移る。手にした温かい湯呑みと目の前の光景を見ながら、この幸せな時間がいつまでも続きますように――そう、願わずにはいられなかった。

 そんなある日、紀江は一人里に呼ばれ出かけて行った。紀江は宮守に結望を預けて、鬼族の運び屋と共に社へと向かったのだ。

 きっと旦那様に何かあったに違いない、紀江は思った。時々、文で状況を届けてくれることはあったけれど、呼ばれるなんてそうそうないからだ。


 ――それが悲劇の始まりだった。


 結望が四歳になる頃、幸せは儚くも散ってしまったのだ。

 深守は何も知らなかった。鬼族と笹野家の事を、何一つ知らなかったのだ。そして同じく紀江も、一瞬の事に何が起きたのかちんぷんかんぷんだった。

「どういうこと…っ!? あの子はどうなってしまうの…!」

 実体は飲み込まれ、意識だけ少し残る暗い暗い闇の中で紀江は絶望感に苛まれた。

 私は死んでしまったの…? 旦那様に、食べられて…?

 理解に苦しんだ。一体、どういう事なのか。

 何より、残された結望がこれからどうなるのかもわからない。外の世界では深守さんも私の死に混乱している…。紀江は朧気ながらも感じ取った。

 結望を助ける手段も途絶えてしまった深守は、自身の無知を嘆いていた。紀江を守る事が出来なかった。自分可愛さに結望を攫う勇気も出なかった。

 こんな狐を二人は許してくれるのだろうか――と。

 そこで紀江の意識もぶつり、と切れてしまった。



「――でも…私にとっての神様は、間違いなく深守さんだった。だって別に、関係のない彼が全てを背負う必要は無いんだもの。あの日々だけで十分幸せだった…。だけどね、彼はちゃんと貴女を迎えに来てくれた」

「深守…は」

 ずっと傍にいた。

 ぽろぽろと涙が零れ落ちた。何故幼い頃の記憶を失っていたんだろう。こんなにも、ずっと前から私達の事を思ってくれていたのに。見守ってたと言っていたのは、本当だったのに。

「…過去の記憶を消されていたの。私も、貴女も。鬼族に繋がるような事は……覚えていなくても仕方ないわ」

「会いたい…、会いたいよ…っ」

 私の為に頑張る貴方に。抱き締めてくれる貴方に。

「…会えるわ。貴女が此処から目覚めようと思えば、必ず」

「でも…、お母様は…」

「大丈夫よ。ずっと貴女の傍に居ますから」

 そう言って紀江は、懐から短刀を差し出した。

「これで私を刺しなさい」

「っ…そんな、出来ません…!」

「私は、長…羅刹様に飲み込まれた紀江の意識の一部。結望と羅刹様を切り離すには、まず、私が貴女の元から居なくならなくてはなりません。…お願いです。この連鎖を止める為にも」

「でも、でも…離れたくありません」

「でもじゃありません…。貴女は此処に居てはならないのだから」

「……あんまりだわ」

 紀江は結望の手を取ると、有無を言わさず短刀を握らせた。

 ずしりとした短刀の重さと使命に、私は狼狽えてしまう。目の前に最愛の母がいるというのに断ち切らねばならないなんて。

「結望、私は愛していますよ。ずっと、ずっと…だから、安心して行くのです」

 紀江は最後の機会だと言わんばかりに結望を抱き締める。そんな事を言われたら、尚のことやり辛い。私は流れる涙を止めることが出来なかった。

 二人は立ち上がる。正面でにこやかに微笑む紀江は、まだ子供っぽさが残っている様に思えた。実の母親に対してそんな事思っていいのかはわからないけれど、大切にしたいと、愛おしさに包まれた。

「さぁ、何も恐れる事はありません。元の世界へ戻りましょう」

 紀江は私の両手を握ると、短刀を自分の方へ向ける。結望へ罪悪感を抱かせない為に、また、自分自身も我が子へ踏ん切りをつける為に構えた。

「お母様…お話出来て良かったです。私も、お母様の事を愛しています」

「ふふふっ嬉しい。…貴女が私の子で良かった」

 紀江はそう言うと、自ら手を動かし腹部へ刺した。夢のはずなのに肉に食い込む感覚を覚え、私は目をぎゅっと閉じる。

 その瞬間、私達二人を中心に光が溢れ出した。

 驚いて紀江を見ようとするが、あまりの眩しさに思うようにいかない。そうしている間にも、紀江の温もりがどんどん無くなっていく。

 私は必死に手を伸ばし続ける。

 その時、「………た、い……」紀江の声では無い、男性の声のような呻き声が一瞬だけ聞こえた気がした。

「――さま、お母様…っ!」

 私は手を伸ばしたまま叫んだ。

「結望…っ!!」

 勢い良く抱き締められ、私はハッとする。

 お母様じゃない、けれど、それは間違いなく自分が求めていた温もりだった。

「し、深守…っ」

「あぁ、結望…良かった、良かった…もう大丈夫よ」

 深守は安堵しながら言う。

 私の頬を大きな手が包んだ。

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