「ひと、じち……?」
彼が言った言葉を復唱する。折成さんは静かに頷くだけだ。
「え…、えっと…。それ…は、詳しい事…伺っても大丈夫なものですか…?」
「まぁ、自分から口に出したしな」
「…あ、でも、傷口が開かないよう…ゆっくり歩きながら行きましょう…」
折成さんは合意したのか、静かに歩みを進めながら話し始めた。
「お前が産まれる何百年も昔。なんなら、俺もかなり幼い頃、鬼族の里と村はある約束を交わしたんだ」
「約束…?」
「あぁ、鬼族は一族繁栄の為にな。お前の故郷は小さな村だから、金の為にもすぐに身寄りのない女を寄越したらしい」
それも今となっては、村でも秘密裏にされている事だった。一般人は勿論知る由もなく、一部の人間だけが知っている。
「俺はそれが嫌で嫌で仕方がねぇ。数十年に一度生贄を寄越したところで意味があるとは思えねぇからな」
折成さんは溜息を吐きながら言った。
鬼族の里の中で生贄は有難い存在として扱われることが多いが、勿論折成さんのようによく思わない者が極少数存在した。村側でいう妖を倒す事が良いとは思えない私のような、里からしたらおかしな奴と言われかねない折成さんは日々悩んでいたのだった。
そんな中、長の側近である空砂さんは、花嫁である人間の娘を鬼族の元へ連れてくる仕事を折成さんへ頼んだという。
けれど折成さんにとって、それは望んでいることではない。里の安寧が妖より儚くなるのが早い少女一人一人の命で保たれるとは思えないからだ。折成さんは断りを入れると、その場を立ち去った。
それが後に地獄を生む事もつゆ知らずに。
折成がいつものように仕事から戻ってくると、血相を変えてこちらに駆け寄ってくる人がいた。折成の母だ。
『あの子がっ…な、成兎(なつ)が、あぁぁっなつ…、なつ……っ!』
普段穏やかな性格の母親が必死の形相で己の衣を掴む姿に、只事ではないことだけはわかる。
『成兎がどうしたって…』
折成は焦り、涙を見せる母を目の前に、何か、考えたくもないような事が起きて、この先を聞く行為が何を意味しているのかを朧気に理解してしまった。
やっぱり聞きたくないと拒否反応したけたところで、その感情は儚くも散ってしまう。
『成兎が…っ、成兎が死んだのよっ』
その言葉に思わず身の毛がよだった。
聞きたくない単語を耳に入れ、信じたくない一心で飛び出す。
『俺のせいだ』
折成は先日の会話を思い出した。
花嫁を連れてくる仕事を断った事。丁重に断ったつもりでも、空砂にとって気が触れるものだったのではないか。事故ではなく、脳がそう思考してしまう。だけど実際ただの嘘で、家で笑顔で待っててくれるのではないか。
しかし家の前まで駆けつけたところで、現実は直接視界に入ってくることになる。全身脱力し、真っ赤に染まった破れた着物を身にまとう、折成の妹である成兎の姿がそこにあったのだ。
そして、その場に立っているのは空砂だ。
空砂は成兎を引っ張りあげると、あまりにも無慈悲で、心のない言葉を折成に言い放った。
『貴様が悪い。鬼族の言い伝えを蔑ろにしようとしたその罰じゃ』
そう、成兎は見せしめとして空砂に殺されてしまったのだ。
『しかし妹に手を出すことはないでしょう…!』
『……これ以上村に逆らってみろ。貴様自身ではなく、貴様の家族がどうなるかを』
『そんな…っ』
あんまりだ。折成は自身の頭を血が滲むほど強く引っ掻いた。空砂から半ば無理矢理に成兎を引き取ると、小さな身体を強く強く抱き締める。この人は生贄として育てられた少女だけでなく、罪のない、無関係の少女の命をも奪う男だった。
里の掟に逆らうことの残酷さを知った折成はその日以降人質生活を余儀なくされることとなり、母親、妹達を守るべく現生贄だという結望の元へ現れた。
だけど、約束を守れば許されるわけではない。空砂の気が変われば、それは全て奪われてしまうのだ。
「俺は空砂さんと同じだ…。“生贄として育てられた娘”を差し出しては、見殺しにしている……。お前の、…お前の…母親も。生贄が死ぬ度に、己が段々と死に慣れていることに気づかされる。そんな自分が憎い」
「…っ」
この時私は、なんて返したら良いのか正直わからなかった。
自身の母親が何故亡くなったのか、幼い頃の記憶だから曖昧で、いつの間にか宮守家でお世話になっていた。きっと病で儚くなったものだと、そう思っていたから。
でも違った。
折成さんは立ち止まり向き合うと、険しい表情で呟いた。
「…俺を恨め。…恨んで、恨んで、呪ってくれ。実際、今もお前からしたら…俺は天敵だ。関係性は何も変わることはない」
「な、なんてこと言うんですかっ…そんなこと、言わないでください。私は別に折成さんを恨んだり呪ったりなどしませんし……母…の、死の理由は悲しいですが、それとこれは別の事ですから……」
折成さんに罪などない。
私が折成さんを咎めたところで、何も解決にはならないのだ。人質の件が嘘か本当かは定かではないけれど、折成さんの焦り具合も、空砂さんからの制裁も、傷だらけの彼を見る限り嘘偽りなかった。
何よりお母様なら――きっと信じる。
「この事…、昂枝達は把握しているんですか…?」
「……俺達は基本過干渉はしねぇんだ。だから俺は宮守から見て、生贄を里へ連れてくだけの運び屋みたいなもんだ」
「そう、ですか…」
彼らは似たような立場でも全然違う。それぞれ抱えている事が、どれだけの負担になっているのだろう。
その負担を少しでも解消出来ればどれ程良いだろう。
「…折成さん、多分、折成さんの焦りを見る限り、またご家族が危ない状況なんだと思うんですけど…」
「…あぁ。明け方までに生贄を連れてこいと言われた。これが最後の機会だとも」
まだ明け方までは時間はあるけれど、話を聞いている限り空砂さんの気分がいつ変わるかわからない。
(実際、誕生日までは自由だと言ったのは向こうだわ…)
いい加減で、嘘っぱちな事を平気で言う人だもの。話がわかった今では、早く行動するに越したことはない。
私は折成さんの傷の少ない左手を握ると、今にも蹲りそうな彼を引っ張って歩き始る。
私も、覚悟を決めよう。
「…なら、立ち止まってる暇はありません。妹さんの為にも私を鬼族の所へ連れて行くのでしょう? それに…私からも空砂さんに伝えてみますから」
「は? お前正気か!? っ痛ァ…………」
折成さんは私の言葉に声を荒らげるも、傷口に触ったようで腹部を抑えながら黙り込んだ。
「だ、大丈夫ですか…」
「…これくらい、平気だ…。人間より作りが良いからすぐ治る」
折成さんは深呼吸をすると、小さく舌を打ちつけた。私は視線を前に戻し続ける。
「わかってますよ…ちゃんと。簡単に生贄になるだなんて、もう言いません…。だからお願いがあります。連れて行く代わりに、私と…取引して下さいませんか」
「………」
「私は貴方と、貴方のご家族の為にひとまず鬼族の元へ向かいます。…その代わりに、隙をついて深守達の元へ行ってください。きっと、私さえいれば……空砂さんは里に留まるはずです」
基本、空砂さんの狙いは生贄である私だけだ。今まではある程度簡単に手に入っていた生贄が、周りの妨害によって手に入っていない。だから彼は怒っている。私が空砂さんの傍にいれば満足するだろう。多分…。
「でも、本当にいいのか…?」
「嫌と言っても、連れて行くでしょう…?」
私は折成さんを横目に見やる。図星といった表情を隠し切れずに彼は目を泳がせていた。
「いいんですよ、全然……。だけど、出来れば私が死んでしまう前に皆で助けに来てくれると…嬉しいです。私はこの通り非力ですから。…あ、勿論やれることは頑張ります。大丈夫です。…きっと、なんとかなりますから」
あくまで前向きにいこう。
自分に言い聞かせるように語る。
「本当にすまない…」
折成さんは私から少しだけ距離を置くと深々と頭を下げた。赤い艶やかな髪の毛が、さらさらと流れるように彼の横に落ちていく。なかなか顔を上げずにいる折成さんに、私は上げることを促した。
「せ、折成さん…っいいんです。ほんとに、気にしないでください」
「…恩に着る」折成さんは呟いた。
「そうと決まれば、のんびり歩いているわけにもいきません。折成さんのお怪我の具合にもよりますが…」
自ら抱き上げろと言うのも気が引けたが、私は折成さんのように早く走ることが出来ない。
折成さんは察したのか、申し訳なさそうに私に手を伸ばす。従うように肩に腕を回すと、私を静かに持ち上げた。
「…走るぞ」
「はい」
怪我をしていても尚、かなりの速さで折成さんは駆け始める。大丈夫だろうかと心配になるが、そうは言っていられないのも事実。私もこんな状態の折成さんに条件付きで交渉を持ちかけたのだから、きっと同罪だ。
私達は一刻も早くと先を急いだ。