一章、出会い2

 狐を見てから一週間が経った。

 あの日からも度々森を覗いているが、狐どころか、やはり動物そのものが現れることはなかった。ただ、この数日幾度と視線を感じることが増えた様な…気がする。

 いつも日中は一人で過ごしているし、用事がある時は仕方なくても基本外に出ないのだからおかしな話ではある。

(まさか、狐さんだったりして…)

 そんなことをつい考えた。

 

 昂枝のご両親は日々のお勤めがあり、家よりも神社の方に長くいる。勿論、昂枝もそちらの方が多い。私はというと、お手伝いだけ。おばさんと一緒にご飯を作ったり、代わりに家事をこなすのが日常。家に置いてもらっている身、出来ることなら基本は何でもこなしたい。宮守家の人達の為に支えたいと感じている。

 最も、その位しか独り身に仕事は無い。私みたいに力の無い女性は、畑仕事等にも向かないらしく追い返されてしまったし。

 歳の近い女の子達はもう、結婚をし子供を産んでいるのに私にはお相手さえいない。周りからお荷物だと思われている事も重々承知している。女で血縁者がいないと、こうも惨めになるんだと周りの目で痛感させられているから。此処に住まわせてもらって、表面だけでも優しくしてもらえている事が、どれだけ有難いことなのか。

(表面だけ……だなんて言っては駄目ね。感謝しかないんだもの)

 もっともっと貧しい人達がいる事も忘れてはいけないし、何より今の私は幸せだ。

 正直、許されるのなら――このままでいたいという気持ちさえある。

 考えながらも、いつものように家事を一段落させた。

 私はなんとなく、「…狐さん、よければ一緒にお茶でもいかがですか?」と言ってみる。

 狐なんかがお茶なんて飲めっこないのに。そもそも此処にあの狐はいない。私は途端に恥ずかしくなり、首をぶんぶんと横に振ると口に出した事を後悔した。

 一人居間に座りながらお茶を飲むこの時間も嫌いではない。家事を済ませた後に飲む温かいお茶はとても美味しいし、ほっと一息とはこの事だと実感するから。宮守家は村から少し奥まった場所にある為、苦手な妖葬班の声もあまり聞かずに済むのもありがたい。

「…落ち着く」

 私はまた一口お茶を啜った。

(………)

 ──炊事までまだ時間がある。

 お茶を飲み干し片付けると、外に出る支度をした。大丈夫、そもそもが森に包まれた境内だ。奥の奥に行くわけではないし、ただ散歩をするだけ。行動が変だと村人に見られる事も…ないはずだ。

 あの狐がまだいるのなら、もう一度、会いたい。理由はこの一週間でもわからなかったけれど、何だか、そのまま放っておくのは駄目だと思うから。

 そう言い聞かせながら玄関を開きかけた。その時、

「お前今一人か。無防備なこった」

 と、昂枝よりも身長が高く、それでいて見たことのない男の人が目の前に立ちはだかった。赤色の袴を身にまとい、何だか厳つそうな顔をしている。それによく見ると頭には何かが生えているし、大きな槍を持っていた。

「ど、どちら様…ですか」

 私は一歩後ずさる。男の人は、そのままズカズカと許可なく玄関の中へ入って来てこう言った。

 

「笹野結望、迎えの時間だ」

 

 私はそれを聞いて、固まってしまう。何の事かちんぷんかんぷんで、訳がわからなくなった。

(迎え…? そもそも、この人は、一体何者なの…? 赤い髪の毛の人なんて身近にいた記憶なんて───)

 昂枝とそのご両親以外に良くしてくれる人など私には、“想埜(その)”くらいしかいない。

「行くぞ」

 彼は私の手首を勢いよく掴んだ。

 誰だかわからない人にいきなり引っ張られ、小さく悲鳴が出てしまう。

「……っ離してください!」

 私は自分の中の精一杯を出し、振り切ろうとした。が、それは惜しくも出来ずに終わる。

 そのまま体勢を崩してしまい、尻もちを着いた。“痛い”よりも“恐怖”で頭がいっぱいで、なんとなく、逃げなきゃと感じるのに体が動かなくなってしまった。呼吸が浅くなるのも感じ、何とか吸って吐いてを繰り返す。

 そんな中、男は私と同じ目線になるようしゃがみ込む。じっとこちらを睨みつけ、何だか物言いたげな表情だ。

 数秒の睨めっこの末、「…折成」と不機嫌そうに男は呟いた。

「せつ、な…?」

「そう、俺は折成。名乗っていなかった」

 彼は折成と名乗り頭を搔く。面倒くさそうに言うその姿は何処にでもいる青年だった。この状況下で無ければ、無愛想だが礼儀のある男だと感心していると思う。

「わ、私を何処に連れて行くんですか…?」

 流れに身を任せて、意を決して聞いてみる。ただし声は震えていた。

「あ~……、それは言えねぇ。理由も…」

 折成さんは頭をかきながらはぐらかす。

 兎に角と、私を引っ張り上げようと腕を引っ張り上げた。前言撤回、強引なやり方はやはり礼儀がなっていない。

「離して…っ!」

「つべこべ言わずに着いてこい!」

 槍を小さく構えられ身震いした。私なんかに勝ち目など、ない。そう現実を突きつけるような凶器。何より、槍で刺されるのはごめんだと、抵抗する術を失ってしまった。

 嫌々引き摺られる形になり、草履が擦れる音が響く。

 一体何なのか、この折成という人は。それにこんな時に限って大きな叫び声も出せなく、もどかしくなる。人が少ない環境は好きだけれど、こうなるのなら、近くに人がいればよかったと感じ始める。社は少し離れていて、多少の物音など昂枝達に聞こえるはずもない。私は何も出来ないまま、これから何処へ連れ行かれるのだろうか。

(嫌だ…大人しく誘拐される訳にはいかない……)

「助けて…!」

 私は一か八かで精一杯声を出す。だが恐怖に脅えてからか、やはりしっかりとした叫び声にはならず、ただの囀のようになってしまった。

 抜け道を歩くと万が一の事があると彼は判断したのか、森の中を割って進んでいく。行こうとしていた森の中、だけど、こんな事は望んでいない。

 

 ――本当に?

 

 私は、ふと頭に過ぎってしまう。

 宮守家の人は驚く程に親切だし私を大切にしてくれるけれど、私がいることによって村の人に何か言われたりしているのなら? いなくなってしまった方が好都合ではないか。

 迎え、と言われるくらいなら私は、少なくとも目の前の…折成さんからは必要とされている。私の存在に価値があるのならそちらを選ぶべきなのではないか。

 ぐちゃぐちゃと、頭の中が混乱し始めた。今考えていること以外にも、いろんな感情が抑えきれなくなくってしまう。

「…っ」

 涙が頬を伝っていくのがわかり、恥ずかしくもなる。

「………」

 折成さんは一瞬こちらの方を向いたが、何も言わずにすぐ視線を戻した。

 当たり前だ。折成さんにとって私が泣こうが喚こうが関係ない。行くべき場所へ連れて行くだけなのだから。

 もう一度、あの狐に会いたかっただけなのに、ここで私の平凡な毎日は終わってしまう。

 お茶を飲んで、お饅頭を頬張って。宮守の人達と団欒して――。

(楽しい…)

 あの空間が、あたたかくて大好き。離れたくない。

 だけど、これ以上迷惑をかけたくないのも事実。いなくなった後、お荷物が無くなって喜ぶ姿――いいえ、きっと彼らなら私がいなくなったら全力で探してくれるだろう。それだけ、優しい人達なのは私が一番知っているのに。いなくなることが迷惑だと前向きに考えたくても、どうしてか、絶対に考えてはいけない方向に揺れ動いてしまう。

「わからない…っ、わか、らない……」

 考えて、考えて。

 溢れる涙を止めることができなくて。

 皆の事を思い出しながら、掴まれている手首を見つめながら、足を動かしている自分もいた。

 

「──遅れてごめんなさいね、結望」

 

 …ふと、誰かの声が聞こえた。

 不思議に思ったが、声が聞こえた時には既に手首から折成の手は離れ、代わりに優しく体を包み込まれていた。

「──────」

 私は目を丸くする。

 そこにはまた、知らない男の人がいたのだ。

 でも、なんだろうこのあたたかさ。知っている気がするのは、何故…?

「あ、あなたは…」

「そんなのは後よ。まずはちゃんと家に帰らなくっちゃ」

 白髪の男の人は私を抱きしめながら、いつの間にか私から離れた折成さんを睨みつける。

 折成さんは「チッ」と舌打ちをすると、「…今日の所は諦める」と言い残しそそくさと消えて行った。

 私は突然の事に体の力が抜け落ち、その場にへたり込んだ。

「………」

 恐怖心は残ったまま、目の前にいる白髪の人をゆっくり見上げる。

 耳と尻尾が生えた、人ではないような、不思議なその人は優しく呟いた。

「怖い思いをさせてしまったわね…。家まで送るわ」

 あなたは、誰…?

 聞こうとしたが、そこから記憶が途絶えてしまった───。

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