胸騒ぎ

 ―――炊事、洗濯を手早く済ませて、巳の刻、午前九時から十時を過ぎたあたりまで時間が過ぎた。なんだかんだ深守は大人しく部屋でぐっすりぐったりとしており、時たま覗けば寝息を立てていた。起こすのもなんだか申し訳なくて、ご飯はそのまま置いてある。

(さっき見たのが初めてだったな)

 深守の眠っている姿。夜中にあった出来事の後、お茶を運んできたらものの数分で本当に眠りについてしまっていたものだから、少しだけ驚いてしまったけれど。

(………眠る姿まで綺麗だなんて、ずるい)

 よく考えたら出会ってから深守が寝ているところを見たことがなかったように思う。それに狐の姿になることは稀にあったけれど、ほとんどの時間を人間の姿で過ごしていた。

 妖に対する知識が乏しい為、深守の言う食事は取らなくても生きていけるのと同じように、寝なくても生きていける――があってもおかしくないと私は気にしていなかった。だけど、この深守を見ている限り、相当疲労が溜まっていたのではないか。きっと、変化し続けるだけでも消費してしまうだろう。

「……ごめんなさい」

 障子の向こうにいる深守に、静かに謝罪の言葉を送る。そのまま「いってきます」と伝えると、私は出かける為に玄関へと移動する。引き戸に持たれるようにして待っていた昂枝には、遅い、と言われてしまったけれど。彼もまた、深守のことが心配のようだった。

「…あいつ大丈夫だったか?」

「うん…ちゃんと寝てたみたいだし、大丈夫…だと思う」

 私は見てきたことを素直に伝える。

 昂枝はいつものように腕を組むと、肘にトントンと指を当てながら思い出すように言った。

「……そういえばあいつの寝てるところ見たことないな」

「やっぱりそうよね…? 今日初めて見たから驚いてしまったの」

 私だけではなく、昂枝も見たことないのなら、きっとおじさんおばさんも見たことはないはずだ。

 毎日、彼は努力をしている。

 自分が呑気に過ごしている間、深守は私の為に頑張ってくれているというのに、当の本人は何もしてやる事が出来ない。

「……深守にね、力は自分の為には使わないって言われてしまったの。彼、治癒の力を持っているのに、大怪我してるのに…、使わないの。それに寝てないことも知ってしまったら……」

 そんな自分がやっぱり情けなくて、申し訳なさで涙が零れそうになった。

「………まぁ、でも…それがあいつのやりたい事なら仕方ないだろうな」

 何かを考えるように昂枝は呟く。

 確かに、仕事や熱中出来ることがあると夜更かししてしまったり、寝る間を惜しんで一睡もせずに作業してしまうことは誰にでもある。昂枝も夜、文机に向かい筆を走らせてることが多々あるのは知っていた。寝付けない夜とかに廊下を歩いていると、部屋から明かりが漏れているのを確認することがある。そういった時は決まってお茶を運んだからだ。

「でも、毎日は……無茶じゃないのかしら…」

 私は両手を絡ませる。

「…無茶だとしても、お前の為にやりたいんだよ。……それだけ愛されてるんだろ、あの狐に」

「………」

「でないとこうもならないだろ。あいつの努力はきっと、……きっと自分の為でもある。否定してやらないでほしい」

 昂枝は優しく私を慰めた。

 深守が出会った時から私を大切にしてくれているのは知っている。いつもわがままを聞いてくれているのも自覚している。

 信じるって決めたのも自分なのに、うじうじしてしまうなんて、深守にも迷惑な話だ。

「そう、よね⋯…。早く、治りますように…」

「……だな」

 歩を進めながら、私は祈った。

 

 ―――暫くして、目的地まで近づいてきた頃。

 向かい側から妖葬班の羽織を靡かせながら歩いてくる二人組が見えた。どんどん近づくにつれ、それが先日初めて出会った波柴兄弟だとわかった。海萊さんは凛とした美しさを見せながら、後ろの海祢さんも真剣な面持ちでこちらへと向かってやってくる。

 私達は緊張感に包まれた。だけど、それを悟られてはならない。平常心を保ちながら目の前に居る彼らを見据えた。

「おや? 宮守のご子息達ではないか」

 海萊さんは楽しそうにこちらへと話しかけてくる。

「ども…」

 軽く会釈をする昂枝に続き、私も立ち止まると一礼をする。

「元気そうで何よりだな。もしや想埜の家にでも遊びに行く途中ですかい」

「そうです。海萊さん達はその帰りですか?」

「あぁ、そうだ。あいつ今まで何処にいるか言ってくれなかったからな。全く、血が半分繋がってるというのによくわからん奴だ」

 言ってくれればよかったものを…と、自身の右手を横髪へ絡ませながら、への字口で言った。

 海祢さんも苦笑しながら呟く。

「頼ることも性格的に出来なかったのでしょう。…ほら、そういうことは…宮守さんの方がお得意ですし」

「確かにな。俺達は妖を斬ることしか出来ないし」

 海萊さんは左腰に差し込まれた刀をカチャリと鳴らす。刀もあまり見たことがないがこうして持ち歩いている者を目の前にすると、自分まで斬られてしまうのではないかという恐怖心に駆られてしまうのだと、今身をもって感じた。

「……まぁ、確かに出来ることはやってるが…。ほとんど俺は何もやってないというか、出来る奴ですよあいつは」

 日々の想埜を思い浮かべながら昂枝は笑う。

「そうか…。なら良いのだが」

 と、言葉とは裏腹に何故かつまらないと言った口調で海萊さんは答えた。そして、不意に私の方に目を向ける。鋭い目つきに一瞬にして肌が粟立った。以前もそうだったが、彼は誰が見ても惹かれるような凛々しい顔立ちと共に、内に秘めたものが見えない恐ろしさを感じた。

 私は少し身を強ばらせ、海萊さんを見つめ返す。

「………笹野結望、だったか。お前、想埜と仲良くしてくれているらしいな」

「え、…えっと、はい…」

 直接話すのは初めてで、ただでさえ緊張している私は声を震わせてしまう。

「あいつ、元々友達が少ないから助かるよ。まぁ、ただ…気をつけた方が良いぞ」

 と忠告をするように言った。何故か今度は楽しそうな口調だ。

「…? 気を、つけるですか…?」

 私はなんのことだろう? と首を傾げる。想埜の何に気をつけろというのか。

 海萊さんはにまっと笑うと、私の耳元まで顔を近づけた。

「あぁ、そうだ。気をつけた方が良い。………想埜もだが、お前からも妖の匂いを感じる、からな」

「………!」

「あっはは、そう怖がらなくてもいいことを…。何、相当悪い妖が近くにでもいるのかね? なんなら俺が懲らしめてもいいぞ」

「――すみません、こいつは人馴れしてないんです。その辺にしていただけませんか」

 私が言葉を失っていると、昂枝は楽しそうな海萊さんから私を遠ざけるように肩を抱いた。

「………おっと、そうか。悪かったな、“花嫁さん”」

「────いえ…」

「まぁ、何かあったら我々にすぐ伝えるといい。…行くぞ海祢」

「…はい。ではまた」

 海萊さんはそう言うなり海祢さんを呼ぶと、海祢さんは丁寧にこちらへと会釈した。

 羽織をひらひらと揺らしながら視界から遠ざかる二人に私達も一礼をする。

「……ありがとう、昂枝」

「あぁ」

 昂枝にも軽く頭を下げると、私の肩から手を退かしながら昂枝は頷いた。

(妖の…匂い………か。自分では全然わからないけれど……)

 妖葬班の二人が向かう先は村。深守は今、一人布団の中で眠っている――はずだ。おじさんおばさんも神社の方へ出払っている時間帯で、家には彼だけということになる。

「……昂枝、気になること…沢山あるけど……。それよりも、二人が危ない気が…するの」

「二人が危ない…?」

「想埜もだけど…、今、深守はあのままなら…体を休めているはずだわ。…だけど、家に一人なの。いくら強くても怪我してるし、もし……万が一、海萊さん達が深守の存在に気づいたとしたら…」

「………確かにまずいというか、心配だな」

 なんで最初から考えつかなかったんだろう。

 今すぐにでも深守の元へ駆けつけなければ――と思う反面、どう選択するべきかわからなくなる。

 そんな時、ふと、思い出した。

 懐からその品を出すと、握り締める。

「……それは?」

「―――深守、から貰った笛……何かあったら呼べって…言われて」

 昂枝に、昨日貰ったばかりの笛を見せた。

 昂枝はなるほど、と呟く。

 正直、こんなにすぐ使うことになろうとは思わなかった。杞憂であれば一番で、何より怪我人を呼ぶなんてこと、本来ならばしたくはない。けれど、なんとなく…こちらの方が早いとも思った。どうせなら、深守と想埜の二人と合流できた方がいい。深守なら堂々と道を歩くことはないし、怪我しててもあんな調子だ。見つかる前に上手く逃げてくれれば、きっと、私のような戦えない人間が行くよりは幾らかマシだ。

 とはいえ、笛を吹けば音は響くわけで…。

「……小さな音でも、いいのかな」

 そもそも深守は狐で、人間より耳が良いとしても、半刻以上かかる距離にある想埜の家に向かっている最中だ。既にかなりの距離を歩いている為、並大抵の者じゃ気づくことは不可能だ。

「それこそ、ものは試しってやつだろ。小さい音でもなんでも使ってみればいいんじゃないか? …まぁ、あんなボロボロ狐を呼ぶのは気が引けるが」

「………う~ん…じゃあ、小さめに一回……ごめんね深守」

 私は笛を構える。そしてひと吹きした。

 

 ―――ピィ

 

「……本当に小さくいったな」

 警戒心が強めに出てしまったのか、かなり小さく、か弱い音が開口部から漏れた。

 昂枝は小さく肩を震わせて、口元を抑えた。どうやらその場にそぐわず壺に嵌ってしまったらしい。

「い、今のは流石に…練習ってことで……」

 私は少しばかり照れくさくなりながらもう一度吹こうとする。

 その時、

 

「―――十分よ」

 

「「わっ!」」

 いきなり聞こえた声に私達は、驚きの声を上げる。目の前にふわっと現れたその人物は、怪我人とは思えないほどに優雅に、可憐にその地に足を付けた。

 何処から現れたのか、どうやって来たのか、摩訶不思議な出来事がまた起きてしまったらしい。

「本物、か…?」

「逆にアタシを偽物だと言うの?」

 昂枝の半信半疑な言葉に深守は眉を顰めた。

「いや、お前が二人も三人もいたら耐えらん――痛ぇっ」

「さっきのお返しよ」

 深守は昂枝の頭に軽く扇子を当てる。

 気を取り直すかのように、私の前へ深守は身なりを整えながら立った。深夜まで着ていたものではなく、着回していたらしいもうひとつの綺麗な着物に身を包み、いつものように羽織を靡かせながら彼は微笑んだ。

「こんなにも早く呼んでくれるなんて、思ってもみなかったわ」

 深守は扇子を開く。今度は舞扇子ではなく、少し重厚感のあるような、しっかりとした扇子だ。扇子に重厚感――というのもおかしな話だと思ったけれど、どうやら鉄扇子、という物のようだった。何より昂枝の表情がそれを物語っている。

 紫色で金箔を使っているという点では同じなので最初はわからなかった。だけど、柄も少しばかり違っていて、小石に混じり桜が散りばめられていた。多少の差で、よく見ないとわからない程度に。

 深守はそれを決まって屋外で使っていた。きっと、護身用として持っているのだろう。武器を持たない彼にとって、扇子は唯一の道具だ。逆に言えば室内だと安全だから、と舞扇子だけ手にしていたということにもなる。

 私はこの小さな違いに、深守からの信頼というものを感じられて嬉しくなった。

「……ごめんなさい、怪我しているのに呼び出してしまって」

 扇子でひらひらと顔を扇ぎながら、私達の方を見据える深守に言う。

「いいのよ。何かあったんでしょう…? というか、アタシも想埜が気にかかるのよね」

 察しのいい彼は、片目をパチッと閉じて先を促す。

 この時私は思った。もしかしたら最初から休むつもりなどなくて、こっそり着いてきたのではないか――と。深守のことを考えると、決して有り得ない話ではなかった。

 私達はとにかくと頷くと、想埜の家まで急ぐべく、駆け足になった。これも、杞憂であることを願って―――。

15

17